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南青山(みなみあおあやま)
北青山と同じ経緯を経た後、昭和41年(1966)の「住居表示に関する法律」施行により、赤坂青山南町を中心に、赤坂新坂町、赤坂檜町、赤坂高樹町、麻布新竜土町、麻布笄町などの一部をあわせて「南青山」となりました。
南青山といえば、青山霊園。明治5年(1872)年、日本で初めての神道用の公営墓地として青山家の下屋敷跡に開設されました。面積は約26万平方メートル、桜の名所としても有名で、花見の季節には大勢の見物客が訪れます。現在は東京都が管理運営しています。
広大な園内には、大久保利通や乃木希典、志賀直哉、尾崎紅葉、斎藤茂吉、高木兼寛、国木田独歩、内藤鳴雪、吉田茂など、おもに明治期の著名人のお墓がたくさんあります。忠犬ハチ公も、ここに眠っています。
表参道(おもてさんどう)
「表参道」といっても、まだあまり地名のような感じはしませんが、駅の名称は、しだいに地名代わりに使われるようになるので、その由来などを取りあげておきます。
よく知られているとは思いますが、これは明治神宮に参拝する一番重要な道として設けられたので、表参道といいます。現在、地下鉄銀座線・千代田線・半蔵門線の駅のある地点に始まって、渋谷区代々木神園町の神宮境内に到達しています。 港区の町名は、南青山三~五丁目と北青山三丁目の接するところが駅の位置です。
この駅の場所は、路面電車があった頃、「明治神宮前」と停留所の名称で呼ばれ、地下鉄ができると、その駅は「神宮前」と呼ばれていました。
しかし、神宮前とはいっても、境内入り口から1 キロメートルくらいも離れているし、千代田線の駅が国鉄原宿駅のそばにできて、この方が神宮のすぐそばにあるものですから、こちらを「明治神宮前」と駅名を変更することになったものです。昭和47年10月のことでした。
表参道そのものは、大正9年11月1日の明治神宮
鎮座祭に合わせて建設されました。当時、この道の位置は、港区側では、旧町名・赤坂区青山北六丁目で、その神宮寄りの方は、南豊島郡千駄ヶ谷町大字原宿の字南原宿と字赤羽根との境界に当たるところで、田畑らしいものも残っていたようです。
北青山(きたあおやま)
天正18年(1590)に土地を与えられた、徳川家重臣の美濃郡上(ぐじょう)藩「青山家」の名が起源とされています。
江戸時代に青山家の敷地の一部が町となり、青山浅河町など、“青山”を冠する町名がつけられましたが、それ以前の記録はなく、周辺の集落の名にも“青山”は確認できません。本格的に広域地名として認識されはじめたのは、明治以降であるとされています。
青山家屋敷地より分与された、厚木街道(大山道=現青山通り/国道246号線)以北が現在の北青山となりました。
その後、江戸は町を増やし、青山御掃除町、青山浅河町、青山御手大工町、青山五十人町、青山久保町、青山原宿町、青山六軒町、青山御炉路町、青山若松町、青山善光寺門前などが起こり、明治になるとこれらの小さな町は合併をくり返し、明治5年(1872)、青山権田原町、青山高樹町、青山六軒町、青山三筋町の4町を除く残りの町が、青山北町と青山南町に整理されました。
明治11年(1878)の「郡区町村編制法」で、北町・南町ともに一部を除いて赤坂区に所属、後に港区となり“赤坂”を冠称しました。昭和41年(1966)の「住居表示に関する法律」施行により、赤坂青山北町を中心に、赤坂青山六軒町・赤坂青山三筋町、原宿などの一部をあわせて「北青山」になりました。
西麻布(にしあざぶ)
江戸時代のこの地は、陸奥(むつ)白河藩「阿部家」下屋敷などの武家地、寺地とその門前、青山原宿村、麻布村飛地、麻布三軒家町、麻布桜田町などがありました。明治に入って、霞町、笄町、桜田町、三軒家町となり、麻布区に所属。昭和42年(1967)、麻布笄町と麻布霞町の大部分に、麻布材木町、麻布桜田町、麻布三軒家町、赤坂青山南町、赤坂青山高樹町などの各一部をあわせて“西麻布”となりました。流行歌にも歌われ、有名人が行き交う町として脚光を集めています。
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